とうとう、E-1のメンバー発表がありましたね。順当に、井手口陽介は選ばれましたね。
恐らく、スタメンで出場だと思いますが、また日本代表の中盤を落ち着かせてほしいですね。
井手口陽介と誰が組むのかも、見所ですね。
誰とでも上手くやれそうな気もしますが。いい位置で、ボールを奪い取り、攻撃のリズムを作ってほしいですね。
12月9日の北朝鮮戦が楽しみですね!新しいメンバーが何人入ってくるのか?
井手口陽介を見たり、聞いていたりするとやんちゃなイメージがあるのですが(笑)
小学校時代の井手口陽介は、どんな感じだったんでしょうね?後、何をキッカケにサッカーを始めたんでしょうか?
井手口陽介、サッカーを始めた時期は?
きっかけは、兄2人がいて、サッカーをやって、試合をよく見ていたことがキッカケでサッカーに興味を持ったようです。
保育園?幼稚園?くらいの時に、母親に連れられてこられたようで、横でボールを蹴っていたそうだ。
そこから、サッカーを熱心に、始めたようですね。
小学校に入学した時に、アビスパ福岡のスクールに入り、本格的にサッカーに取り組んだみたいですね。
やはり、始めたキッカケは遊びからだったが、スクールに入る若手選手は多いですね。
小学校に入学してから、低学年まで。
井手口陽介は、小学校1年生で、アビスパ福岡のスクールに入った。
そこは週1回だったようで、家が博多区にあり、練習場のある東区は遠かった。
小学校に入学したばかりなので、母親に、往復2時間くらいかけて通っていたそうだ。
母親も大変だったと思うが、井手口陽介に期待をしていたところがあったのではないか?
それぐらい、熱心な方だったのであろう。そうでなければ、送り迎えは出来ないですよね?
小学校3年生の時に、スクールで一緒の友達に誘われ、中央FCというチームにも入団し、週2回通っていたそうだ。
アビスパ福岡と中央FCで、週3の練習していたんですね。小学校の時から掛け持ちだったんですね。
さらに、それ以外の日は兄と結構遊びでボールを蹴ることが多かったという。
遊び感覚でやっていたようなので、気軽にサッカーを楽しんでいたのでしょう。
アビスパ福岡、中央FCで週3の練習に加えて、それ以外は兄とボールを蹴っているとは…。本当に、サッカー漬けの日々だったのですね。
井手口陽介は、小学校3年生の時には、上級生に混じってやっていたらしい。小学校3年生から、上級生と混じってとは凄いですね。
試合には、すべて出ていたわけではなかったようだが、連れていってもらっていたようです。
しかも、チームは福岡でも強かったようで、その中でも試合に連れていってもらえたのは、良かったことだと思います。
この頃から、ボランチをやっていたわけでは、FWをやっていたようだ。やはり、人気のポジションですもんね。
井手口陽介が、FWをやりたがってやっていたのか?わからないが、当時は、ロナウド(元ブラジル代表)、アンリ(元フランス代表)に憧れていたようで、そういった理由でFWをやってたのかもしれませんね(笑)
そして、小学校5年生の時に、チームが変わることになる。
低学年~小学校高学年。
井手口陽介、小学校5年生の時に、中央FCが二つのチームに分かれた。
ストリートSCと油山カメリアーズFCという二つのチームである。井手口陽介は、油山カメリアーズFCを選んだ。
理由は、人数が油山カメリアーズFCの方が多かったから。しかも、小学校の同学年が15人くらいいたのも大きかったのではないでしょうか?
技術的な練習が中心だったようで、そこで井手口陽介は、技術的なことを身に付けたのでしょう。そこで、井手口陽介自身の意識も変わったらしいです。
自主トレも家の近くでやるようになったとか!以前までのチームでは、走るのとゲームばかりだったらしく、井手口陽介にとっては新鮮であったらしい。
だから、足元の技術も身に付けたんですね。小学校の内に、必要なモノの土台を作っていったんですね!
それに、走りこみのトレーニングもしていたことも無駄ではなかったかな?とも言っていた。
チームだけでなく、家の付近を兄と走っていたり、一人で走っていたこともあったそうだ。
その効果か?心肺機能は多少良くなったのかもしれないとも言っていた。
昔から、努力家だったんですね。パッと見、努力するような人だと思っていなかったので、人知れずに努力していたんですね。
失礼しました。だからこそ、プロ、日本代表にまで上り詰めたのですね。
小学校6年生の時に、ナショナルトレセン九州に選ばれていたらしい。
中島賢星(横浜F・マリノス)や増山朝陽(ヴィッセル神戸)がいたらしい。
そのことは、覚えていたようで特に、増山は保育園が一緒で、小学校はとなりの小学校だったらしい(笑)
小学校の時に、良きライバルが近くにいたものですね(笑)
中島は、引越ししてきたのか?マリノスから、来たようで県トレセンで一緒だったようです。
井手口陽介曰く、県トレセンのメンバーは、みなレベルが高かったようです。
しかし、3人共に、Jリーガーになっているわけで、凄い巡り合わせですね!
そして、監督に、JFAアカデミー福島の受験を勧められたようだ。そこで、初めて挫折を味わった。
初めての挫折とその後…。
今まで上手くいっていた井手口陽介。もしかしたら、初めてかもしれない。
熊本県にもアカデミーができるところであったが、井手口陽介は本校の福島を受験。
監督も合格すると思っていたらしいが…。まさかの不合格。原因不明のようだった。
監督は、井手口陽介がショックを受けていたのがわかったらしい。
それは、そうだろう。初といってもいいほどであっただろう。
そして、その日を境に井手口陽介が変わった。練習は早く来て、ランニング、技術的な練習をしていたらしい。
監督曰く、その頃から、目の色が変わったらしい。
このショックを機に、ガンバ大阪のジュニアユースを受験することに。
キッカケは、母親に勧められたことが、キッカケであった。ハイレベルなガンバ大阪ジュニアユースだから、簡単にはいかないと思われた。
しかし、井手口陽介には関係なかった。ガンバ大阪のコーチ陣は、ハイパフォーマンスに驚いたらしい。
ガンバ大阪のコーチが、
「普通にサッカーができる子やなと。コーチ陣も満場一致で『あの子、ええなあ』という話になりました」
という話をしていたようだ。
ジュニアユースの監督も
「1回見ただけで合格というくらい、技術や状況判断が素晴らしかったですね。トリッキーなプレーやドリブルばかりする子が多い中、陽介は大人のようなサッカーをしていましたからね。」
その後、福岡の知り合いに井手口のことを聞いてみると、『あ~、知ってる、知ってる』くらいで、宇佐美みたいに地元で圧倒的に有名だったわけではなかったようです。ウチに来てくれてよかったですね」
と指導者たちが注目するほど、インパクトがあったようだ。
無事に合格!井手口陽介なら、当たり前か!
ちょうど、その時はアビスパも、受けてたらしいですが、合格を知って、すぐに断ったらしい。決断が早い(笑)
そして、ガンバ大阪ジュニアユースに入団した。
井手口陽介は、小学校時代の母親への感謝をしていた。
クラブに行く時も母に送ってもらい、さらに弁当も作ってもらい、帰りの車で食べていたそうだ。
さらに、小学校の高学年の時は、上の兄が大阪の大学、真ん中の兄は、高校生で帰りが遅かったので、母と一緒にいる時間が多かったらしい。
井手口陽介は、特に『ああしろ、こうしろ』とは言われていなかった。
ホントに自分が好きなようにやらせてもらってたし、自由にできたかなと思います。
と言っていた。母が自由にさせてくれたことに、感謝していると思われますね。
そんな母の努力もあり、立派なサッカー選手になれたんですね。
これからも、井手口陽介のためにも、母のためにもサッカーで見せ付けてほしいですね!
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