リシャルリソンの生い立ちが壮絶すぎる…そんな声がSNSでも話題になっています。
世界で活躍するブラジル代表FWですが、その原点は極貧の少年時代にあります。
アイスキャンディーを売って家計を助け、トライアウトに何度も落ち、銃を突きつけられたことすらある過去。
そんな彼を支えたのは、家族の深い愛情と、サッカーへのひたむきな情熱でした。
この記事では、リシャルリソンがどのように人生を切り拓いてきたのか、感動のストーリーを時系列で紹介します。
読んだ後、きっと誰かに話したくなる内容です。
この記事の内容
リシャルリソンの生い立ちと家族【極貧から這い上がった理由】
引用:facebook
リシャルリソンの生い立ちと家族について、極貧から這い上がった背景を詳しく紹介していきます。
①貧困の中で育った少年時代
引用:dailymail
リシャルリソンは1997年、ブラジルのエスピリト・サント州ノヴァ・ヴェネシアという地方都市で生まれました。
この町は治安が非常に悪く、失業率も高いことで知られており、彼の家族も例外ではありませんでした。
父親は煉瓦工場の労働者で、日給でなんとか生活を支えていたものの、家計は常に苦しく、5人兄弟が1つの寝室で過ごしていたそうです。
トイレにはドアがなく、バスルームすらまともに整っていないような環境で育ちました。
そんな生活の中でも、リシャルリソンは「ボールさえあれば楽しかった」と笑いながら振り返っています。
でも、現実はそんなに甘くない。
「今日は晩ご飯がない」と言われることも、日常だったそうです。
この極端な貧困が、のちに彼の強い精神力を育んだのは間違いありません。
②銃を突きつけられた衝撃の経験
リシャルリソンの少年時代は、サッカーだけでなく命の危険とも隣り合わせでした。
彼の育ったノヴァ・ヴェネシアの通りでは、麻薬の売人やギャングの抗争が日常的に起きていて、銃声が響くのも珍しくなかったそうです。
そんなある日、彼は友人のもとへ向かう途中で突然男に銃を突きつけられたと語っています。
理由は、「その地域に“敵対するギャングのスパイ”と間違われたから」。
当時14歳。
「そのときは本当に死ぬかと思った。走ることも、叫ぶこともできなかった」と、のちにBBCのインタビューで振り返りました 。
幸い、そのとき男が友人の兄と知り合いだったことから、間一髪で撃たれることは避けられました。
しかし、この経験が彼にとって「サッカーで人生を変えなければ、この町では死ぬ」と本気で思わせた転機だったと語られています。
彼の根底にある“勝ち上がるしかない”という覚悟の原点は、このときに生まれたのかもしれませんね。
③家族と築いたサッカーへの夢
引用:bbc
リシャルリソンのサッカー人生は、家族の存在なくして語れません。
とくに父親のアントニオさんは、彼の最初のコーチであり最大の理解者でした。
近所のグラウンドに連れて行ってくれたり、靴がボロボロでも文句ひとつ言わず、サッカーに必要なものは何とか工面してくれたそうです。
彼がプロを目指すことを決めたのも、「父と一緒にテレビでロナウジーニョを見ていたとき」だったと語られています。
「いつか自分もブラジル代表のユニフォームを着たい」──その夢は、家族との時間の中で自然に生まれていきました。
また、母親のヴェラさんは家庭を支える柱でした。
リシャルリソンが学校から帰ってくると、母はすでにチョコトリュフや焼き菓子を作っていて、彼も一緒に販売の手伝いをしていたそうです。
生活は決して楽ではなかったけれど、「家族がいたから、心だけは満たされていた」と本人は後に語っています。
彼の夢は、家族みんなの希望でもあったんですよね。
④アイス売りからプロへの道のり
プロサッカー選手になる──それは夢のまた夢のような話だった。
そんな環境の中、リシャルリソンは現実の生活費を稼ぐためにアイスキャンディーを売っていた時期がありました。
暑い日差しの中、町の広場やバス停、工場の前などを自転車で回って、「1本いかがですか?」と声をかけていたそうです。
さらに、アイスだけでなく、父親と一緒に中古タイヤの販売、近所の車の洗車などもしていたといいます。
それでも、どれだけ疲れていても、夜のトレーニングだけは欠かしませんでした。
サッカーボールを蹴る時間だけが、自分を夢に近づけてくれる時間だったからです。
転機となったのは、14歳の頃。
地元のアメリカ・ミネイロというクラブのセレクション(トライアウト)を受け、何度か落ちた後にようやく合格。
そこからは、まるで世界が変わったかのように、人生が動き始めました。
「努力すれば報われるって、あのとき初めて実感できた」と語る彼の言葉が、どれだけ重いか…。
アイス売りの少年が、ついに“プロ”の道を歩き始めた瞬間でした。
⑤心を支えた母と祖父母の存在
リシャルリソンがどれだけ苦しい時期にも夢を諦めなかった背景には、母と祖父母の存在がありました。
母・ヴェラさんは、リシャルリソンが幼い頃から家庭を一手に支えてきた人です。
朝から晩まで働きづめで、時には3つの仕事を掛け持ちしていたとも言われています。
とくに家庭内では、食事をどう工夫して皆に行き渡らせるかに頭を悩ませていたそうで、自ら作ったお菓子やスナックを子どもたちに分けていたと語られています。
そんな中で、サッカーのスパイク代をこっそり貯めてくれていた──という、涙なしでは語れないエピソードも残されています。
一方、リシャルリソンにとって精神的な支えだったのは、祖父母。
彼は「練習で悔しい思いをしたとき、真っ先に話を聞いてくれたのはおばあちゃんだった」と明かしています。
「大丈夫。うまくいくよ」そんな一言がどれだけ救いだったか、本人は何度もインタビューで語っています。
彼が後に稼いだお金で一番にやったことは、家族への恩返し。
母の家を買い替え、祖母には医療費を支払い、家族みんなに「もう心配しなくていいよ」と伝えたそうです。
こんな話、泣けちゃいますよね…。
⑥少年時代の努力とトライアウトの失敗
引用:signature
プロへの道のりは、決して順風満帆ではありませんでした。
リシャルリソンは若い頃、いくつものクラブのトライアウトに落ちています。
彼自身、「本当にサッカーが上手いのか、自信を失いかけた」と語るほど、厳しい現実を突きつけられていたんです。
その中でも特に悔しかったのは、アトレチコ・ミネイロのセレクションで不合格になったとき。
何百キロも離れた場所まで交通費をかき集めて行ったにもかかわらず、結果は不合格。
しかも、宿泊先もなく、数日間は路上で寝泊まりしたというエピソードも。
このとき、「家族に申し訳ない」「もう諦めるしかないか」と涙した夜もあったそうです。
それでも彼は、ボロボロのスパイクを履きながら、走って走って走り続けました。
練習が終わっても、1人で壁に向かってシュート練習を繰り返す日々。
そしてついに、アメリカ・ミネイロのユースに合格したとき、彼は初めて「これはチャンスだ」と確信したそうです。
失敗と挫折の繰り返しだったけれど、それがあったからこそ今のリシャルリソンがある──そう言っても過言じゃありませんよね。
⑦成功しても変わらぬ“地元愛”
この投稿をInstagramで見る
プロとして成功を収め、億単位の年俸を得るようになっても、リシャルリソンの心は地元にしっかりと根を下ろしたままです。
彼は自らの出身地であるノヴァ・ヴェネシアに、貧困家庭への食料支援や子どもたちへのサッカーボールの寄付など、さまざまな社会貢献を行っています。
2020年のパンデミックの際には、ブラジル国内でマスクや食料が足りないという報道に対し、個人で大量の物資を調達し、無償で配布したことも。
また、SNSを通じていじめ反対や環境保護、メンタルヘルスの問題など、社会的なメッセージを積極的に発信する数少ない選手でもあります。
さらに面白いのが、彼の“地元ネタ”への愛。
少年時代に使っていた古いトレーニングシューズを今でも大事に持っていたり、仲間との思い出の写真を飾っていたりと、物にも人にも「恩を忘れない」姿勢が貫かれています。
「今の自分があるのは、あの町と、あの時代の自分がいたから」
この言葉は、ただの美談ではなく、リシャルリソンの生き方そのものなんですよね。
さいごに
リシャルリソンの人生は、ただの成功物語ではなく“生き抜いた物語”です。
ブラジルの貧困地帯で育ち、銃や犯罪が日常の中で、家族と支え合いながら夢を追い続けてきました。
何度も夢が潰れかけた少年が、あきらめなかった理由──それは家族の存在と、地元への強い愛情でした。
彼のように努力と情熱を持ち続ければ、どんな状況でも未来は変えられる。
そんな勇気を、リシャルリソンの生き方が私たちに教えてくれます。
彼の今後の活躍にも、ますます目が離せません。