レアル・マドリードでプレーするアルゼンチン代表のフランコ・マスタントゥオーノ。
左足から繰り出す高精度のキックやドリブル、若手とは思えない判断力などから、幼い頃からサッカー一筋で育ってきた選手と思う人も多いのではないでしょうか。
ところが、マスタントゥオーノの幼少期を調べてみると、意外な経歴が見えてきます。
実はマスタントゥオーノは、サッカーだけでなくテニスでもアルゼンチン国内トップクラスのジュニア選手でした。
しかも、一度は名門リーベル・プレートから育成組織への加入を持ちかけられながら、テニスを続けるために断ったと報じられています。
もしそのままテニスを選んでいたら、現在のマスタントゥオーノは存在しなかったかもしれません。
では、なぜテニスではなくサッカーを選んだのでしょうか。
この記事では、
- マスタントゥオーノの幼少期
- テニスの実力はどれほどだったのか
- 一度リーベル・プレートを断った理由
- サッカーを選んだ理由
- 父親と家族の影響
- リーベル・プレート加入までの経歴
- テニス経験がサッカーに与えた可能性
について、海外メディアの情報をもとに紹介します。
この記事の内容
- 1 フランコ・マスタントゥオーノはアルゼンチン・アスールで育った
- 2 実はテニスでもアルゼンチン国内トップクラスだった
- 3 サッカーでは左利き、テニスでは右利きという珍しい特徴も
- 4 10歳ごろにリーベル・プレートから声がかかる
- 5 リーベル・プレートを一度断った理由はテニスだった
- 6 なぜテニスを辞めてサッカーを選んだ?
- 7 2019年、ついにリーベル・プレート入りを決断
- 8 16歳でリーベル・プレートのトップチームへ
- 9 テニスを選んでいたら別のスターになっていた?
- 10 テニス経験は現在のプレーに生きている?
- 11 父クリスティアンの存在も大きかった
- 12 「二刀流」の少年が世界的なサッカー選手へ
- 13 まとめ
フランコ・マスタントゥオーノはアルゼンチン・アスールで育った
フランコ・マスタントゥオーノは、2007年8月14日にアルゼンチン・ブエノスアイレス州アスールで生まれました。
アスールは大都市ブエノスアイレスから離れた内陸部の街です。
BBCはマスタントゥオーノが育った場所について、低い家々や広場がある一般的な地域だったと紹介しています。
そこで少年時代のマスタントゥオーノは、友人たちとボールを蹴って過ごしていました。
サッカーとの関係は非常に早くから始まっています。
BBCが取材した地元関係者によると、父クリスティアンさんが指導者を務めており、幼いフランコも父について練習へ行っていたそうです。
つまり、マスタントゥオーノにとってサッカーは、物心がついた頃から身近に存在していたスポーツでした。
複数の海外メディアでは、3歳ごろから地元のRiver de Azulでサッカーを始めたとされています。
父親が指導者だったことを考えれば、自然な流れだったのでしょう。
しかし、少年マスタントゥオーノにはもう一つ、大きな才能がありました。
それがテニスです。
実はテニスでもアルゼンチン国内トップクラスだった
マスタントゥオーノの幼少期で特に興味深いのが、テニスの実力です。
単に「サッカーの合間にテニスを習っていた」というレベルではありません。
海外の複数メディアは、マスタントゥオーノがジュニア年代のアルゼンチン国内ランキングで上位に入るほどの選手だったと報じています。
『EL PAÍS』は、11歳の頃に同年代で国内トップ5に入っていたと紹介しています。
一方、別の資料ではトップ10とされることもあります。
ランキングの具体的な順位について報道間で違いがあるため、「常に何位だった」と断定するのは避けた方がよいでしょう。
ただし、
アルゼンチン国内でもトップクラスのジュニアテニス選手だった
という点については、複数の海外メディアで一致しています。
これはかなりの実力です。
サッカーで後にアルゼンチン代表になるほどの才能を持ちながら、別競技でも全国レベルだったことになります。
サッカーでは左利き、テニスでは右利きという珍しい特徴も
さらに面白いのが利き手です。
『EL PAÍS』によると、マスタントゥオーノはサッカーでは左足を得意とする一方、テニスでは右手でラケットを握っていました。
現在のマスタントゥオーノといえば、強烈かつ正確な左足が最大の武器の一つです。
右サイドから中央へ入り、左足でシュートやパスを繰り出すプレーは大きな特徴となっています。
ところがテニスでは右利き。
異なるスポーツで左右を使い分けていたことになります。
テニス経験が現在のサッカー技術に具体的にどの程度影響しているのかについて、本人や指導者による明確な分析は確認できません。
そのため、「テニスのおかげで現在のプレースタイルになった」と断定することはできません。
ただ、幼少期に二つの競技へ高いレベルで取り組んでいたという事実だけでも、マスタントゥオーノの運動能力の高さを感じさせるエピソードです。
10歳ごろにリーベル・プレートから声がかかる
マスタントゥオーノの人生に最初の大きな分岐点が訪れます。
2017年ごろ、地元でサッカーをしていたマスタントゥオーノは、アルゼンチンの名門リーベル・プレートの目に留まりました。
まだ10歳前後です。
リーベル・プレートの育成組織といえば、数多くのアルゼンチン代表選手を輩出してきた名門です。
サッカー選手を夢見る少年にとって、これ以上ないほど魅力的な話でしょう。
実際、マスタントゥオーノはテストを受け、育成組織への加入を持ちかけられたと報じられています。
ところが――。
マスタントゥオーノ側は、この誘いを一度断っています。
現在のキャリアを知っていると驚くエピソードです。
リーベル・プレートを一度断った理由はテニスだった
なぜアルゼンチン屈指の名門クラブからの誘いを断ったのでしょうか。
理由として報じられているのが、テニスを続けるためです。
GOALは、10歳のマスタントゥオーノにリーベル・プレートが育成組織への加入を提示したものの、家族がテニスでの目標を追うことを望んでいたため断ったと紹介しています。
つまり当時は、
「サッカー選手になることが決まっていた少年」
ではありませんでした。
テニスにも本格的な将来の可能性があったのです。
その後も地元でサッカーを続け、11歳ごろにはCemento Armado(Club Cemento)でもプレーしたとされています。
現在から振り返れば、「レアル・マドリードへ行くほどの選手なのになぜ断ったの?」と思ってしまいます。
しかし当時の家族からすれば、テニスでも全国トップクラス。
どちらの道を選ぶべきなのか簡単には決められなかったのでしょう。
なぜテニスを辞めてサッカーを選んだ?
そして最大の疑問が、
「なぜ最終的にテニスではなくサッカーを選んだのか?」
です。
ここは誤解を招きやすいところなので注意が必要です。
「テニスで挫折したからサッカーへ転向した」
という事実は確認できません。
むしろ逆です。
テニスでも国内トップクラスだった中で、最終的に本人がサッカーを選びました。
元リーベル育成指導者マルティン・ペジェグリーノは、マスタントゥオーノがテニスでもトップクラスだったことに触れながら、最終的には選択しなければならなくなったと振り返っています。
そして報道から見えてくる大きな理由が、
リーベル・プレートのトップチームでプレーするという夢
です。
少年マスタントゥオーノにとって、サッカーは単なる得意競技ではなく、自分が進みたい道になっていきました。
一度は断ったリーベル・プレートから再びチャンスが訪れると、今度はその誘いを受けます。
2019年、ついにリーベル・プレート入りを決断
2019年、マスタントゥオーノは大きな決断を下します。
テニスではなくサッカーを選び、リーベル・プレートの育成組織へ加入しました。
最初に誘われた2017年ごろから約2年。
その間に本人の中で、進むべき道が明確になっていったのでしょう。
まだ12歳前後の少年です。
地元アスールを離れて名門クラブの育成組織へ進むことは、競技だけでなく生活環境も大きく変える決断でした。
しかし、この選択が後のキャリアを大きく動かします。
リーベル加入後は新型コロナウイルスの影響で育成年代の活動が中断される難しい時期も経験しました。
それでも活動再開後に頭角を現します。
育成年代で得点力を発揮し、年齢カテゴリーを飛び越えながら評価を高めていきました。
15歳になる頃には上の年代でもプレーするようになり、アルゼンチン世代別代表にも招集される選手へと成長します。
16歳でリーベル・プレートのトップチームへ
サッカーを選んだ決断から数年。
マスタントゥオーノは驚異的なスピードでトップチームまで駆け上がります。
2024年1月、16歳でリーベル・プレートのトップチームデビュー。
さらに得点を記録し、クラブの最年少得点記録も更新しました。
10歳の頃、一度は加入を断ったクラブです。
テニスとサッカーの間で揺れていた少年が、そのリーベルのトップチームで史上最年少クラスの記録を作る選手になったのです。
そして2025年には、ボカ・ジュニアーズとのスーペルクラシコで鮮烈なフリーキックを決めるなど、一気に世界的な注目を集めました。
アルゼンチン代表にも選ばれ、欧州のビッグクラブが獲得を争う存在へと成長していきます。
最終的に選んだのが、レアル・マドリードでした。
テニスを選んでいたら別のスターになっていた?
これはあくまで想像の話ですが、マスタントゥオーノの幼少期を知ると考えてしまいます。
もしサッカーではなくテニスを選んでいたらどうなっていたのでしょうか。
11歳前後でアルゼンチン国内トップクラスに入るほどの実力があったのであれば、テニス選手として上を目指す可能性も十分あったでしょう。
もちろんジュニア年代のランキングとプロとしての成功は別物なので、
「テニスを続けていればプロになれた」
と断定することはできません。
しかし、二つの競技で全国レベルの才能を見せていたこと自体が非常に珍しい経歴です。
そして本人は最終的にサッカーを選びました。
結果的にその決断は、
アスール
→ リーベル・プレート育成組織
→ リーベル・プレートのトップチーム
→ アルゼンチン代表
→ レアル・マドリード
というキャリアにつながりました。
少年時代の選択が、その後の人生を大きく変えたといえるでしょう。
テニス経験は現在のプレーに生きている?
マスタントゥオーノのプレーには、若手とは思えない特徴があります。
ボールを受ける前の判断、相手との距離感、細かなステップ、そしてプレッシャーの中でも慌てない冷静さです。
こうした部分を見ると、「テニス経験が役立っているのでは?」と思いたくなります。
テニスでは、
- 相手の動きを読む
- 瞬間的に判断する
- 細かなステップで位置を調整する
- 一対一のプレッシャーに対応する
- 自分自身で試合中の問題を解決する
といった能力が求められます。
サッカーと共通する部分もあります。
ただし、マスタントゥオーノ本人や専門家が「現在の○○という能力はテニスによって身についた」と明確に説明した一次情報は、今回確認できませんでした。
したがって、テニス経験と現在のプレースタイルを直接結びつけるのは推測になります。
それでも、幼少期に異なる競技へ本格的に取り組んだ経験が、彼の運動能力や競技観を形成する一要素になった可能性は考えられるでしょう。
父クリスティアンの存在も大きかった
マスタントゥオーノの幼少期には、父クリスティアンさんの存在も欠かせません。
BBCの取材に登場する地元関係者は、幼いフランコについて、父クリスティアンさんが指導者を務めており、父と一緒に練習へ来ていたと振り返っています。
幼い頃から父親のそばにサッカーがあったわけです。
一方で、一度目のリーベル加入を断った経緯からも分かるように、家族は「絶対にサッカー選手にする」と一つの競技を押し付けていたわけではありません。
テニスにも高い可能性があれば、その道も真剣に検討していました。
最終的にサッカーを選択したのはフランコ自身。
その決断を家族が支えたという構図が、公開されている情報から最も自然に読み取れます。
「二刀流」の少年が世界的なサッカー選手へ
現在のマスタントゥオーノだけを見ると、
「アルゼンチンに現れたサッカーの天才少年」
という印象が強いでしょう。
しかし、そのキャリアは決して最初から一本の道だったわけではありません。
幼少期にはサッカーとテニスの両方に取り組み、テニスでも国内トップクラスまで成長。
一度はリーベル・プレートからの誘いを断り、テニスの可能性を追いました。
その後、自分の進みたい道としてサッカーを選択。
2019年にリーベル・プレートへ入り、わずか数年でトップチーム、アルゼンチン代表、そしてレアル・マドリードへと駆け上がりました。
マスタントゥオーノの幼少期は、
「最初からサッカーしかなかった天才」ではなく、「二つの才能から自分の道を選んだ少年」
という方が実像に近いのかもしれません。
まとめ
フランコ・マスタントゥオーノは、幼い頃からサッカーとテニスの両方で高い才能を発揮していました。
サッカーは父クリスティアンさんのもと、地元アスールで幼少期からプレー。
一方のテニスでもアルゼンチン国内同年代の上位に入るほどの実力を持っていました。
10歳前後にはリーベル・プレートから育成組織への加入を持ちかけられましたが、一度はテニスを続けるために断っています。
しかし、成長するにつれてサッカーへの思いが強くなり、2019年にリーベル・プレート加入を決断しました。
その後の活躍は目覚ましく、16歳でトップチームデビュー。
アルゼンチン代表へ進み、さらにレアル・マドリードへとキャリアを広げました。
テニスを諦めたからサッカーへ進んだのではありません。
テニスでも成功する可能性を持ちながら、自らサッカーを選んだ。
ここがマスタントゥオーノの幼少期を知るうえで重要なポイントです。
もし少年時代に違う決断をしていたら、私たちはサッカー選手フランコ・マスタントゥオーノを見ることがなかったかもしれません。
二つのスポーツで才能を発揮した少年が、自ら選んだ道を進み、世界最高峰の舞台へたどり着いた――。
その経歴を知ると、マスタントゥオーノという選手がさらに興味深く見えてきます。



